読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

褻の日記

耽美っぽい文章を書きます

もし真に道徳的な人間がいるとすれば、それはマゾヒストただ一人である

 マゾヒストの感情は不思議なものだ。動物である人間は痛いことを本能的に避けようとするのが普通だろう。しかし、マゾヒストは痛みを受け入れていく。しかも受け入れるだけではない。快感として自分の中に取り込んでいくのだ。

  一本鞭で打たれている人間を見たことがある。衣服は着けていたのだが、薄い生地だったので打たれる度に何本者赤い糸が尻に浮かび上がるのが端から見ている私の目にも分かった。赤い細い跡は時間を経る度に重なり合い尻全体を赤く染めていく。責める側が打ち終わり、マゾヒストに「大丈夫?」と声を掛けたとき、マゾヒストは「気持ちよかったです。ありがとうございます。前より耐えられて嬉しかったです」と嬉しそうに答えた。

  だが、「気持ちよかった」と「前よりも耐えられた」という2つの言葉が並ぶのは少し奇妙な気がする。なぜならば、「耐える」という言葉は通常、嫌なことに対して使う言葉だからだ。つまり、言葉通りに解釈すると彼女にとって鞭で打たれたのは気持ちよかったが、同時に耐えなければならない嫌なことであったという結論になる。

  そうしてみるとやはり奇妙だ。耐えなければいけないほど嫌なことが気持ちいいとはどういうことなのか? 畢竟、なぜマゾヒストは苦痛を快感として受け入れていくのか?

  その謎を考えるときにキーワードとなる言葉は「罪」と「罰」であると私は考える。そして、サディストとマゾヒストの作る関係性を1つの社会として見なしたい。サディストとマゾヒストの関係は罪と罰を根幹にした2人の社会だ。

  この社会の中で、サディストはマゾヒストに罰を与えていくのだ。鞭であろうと蝋燭であろうと苦痛という罰をサディストはマゾヒストに与える。

 罰があるということはその原因である罪も存在しなくてはならない。では、罰を受ける側であるマゾヒストの犯した罪とは何か。それは、性というタブーである。マゾヒストはサディストと背徳的でエロティックな社会を作る。しかし、性的な関係というのはSMのみならず一般的に忌避されるべきものだ。「快楽を得るための性」というのは道徳上、下劣なものだと多くの宗教や地域で考えられている。恋人は良いがセックスはだめ、という矛盾をはらんだ社会的な観念があるが、まさにそのようなことだ。マゾヒストはサディストから性的興奮を得ようとする存在であり、それ故にマゾヒストは快楽のための性というタブーを犯しているのだ。そうしてマゾヒストは罰されなければならない存在として2人の社会の中に現れる。

  そうしてサディストはタブーを犯しているマゾヒストを罰するのだ。マゾヒストが罰されている瞬間とは社会的正義が守られている瞬間であり、マゾヒストにとって贖罪の瞬間なのだ。この贖罪の感覚がマゾヒストにとって快楽となるのではないだろうか。サディストによる苦痛はマゾヒストにとって「許されている証明」なのだ。その「許し」は1人の人間に罪のない人間としての存在理由を与える。通常、社会の中で「許し」というプロセスを実感できることは少ない。しかしこの社会にいればマゾヒストは簡単に分かりやすい「許し」を得ることができるのだ。そうしてマゾヒストは「許し」という快楽を受け取る。サディストとマゾヒストのプレイはその社会の中での道徳的行為として完成する。

 しかし、ここで注意したいのはマゾヒストが受け取る「許し」という快感も、性的快感に他ならないということである。つまり、許され、快感がきた瞬間にその快感もまた罪となる。サディストとマゾヒストの社会では「罪」「許し(罰)」「快感」という3つの要素が絶えず入れ替わる。

  少し話が飛ぶが、キリスト教では原罪を犯した人間という、元から罪を背負った人間像が見られる。このキリスト教社会では殉教が尊いものとして重視されるが(特に原始的なキリスト教に近付けば近付くほどに)、これも殉教で自分の原罪を払うという考えが根底にはあるようだ。そう見るとこのキリスト教社会における殉教の精神とSMでのマゾヒストの精神は一致する。どちらも罪の背負った人間が罪から解放されるプロセスだからだ。ニーチェは「もし真のキリスト教徒がいるとすれば、それはイエスただ一人である」と贖罪の精神を失った教会を批難し人間の原罪を背負って死んだイエスのみをキリスト者として認めた。SMの社会でマゾヒストが性的快楽を求めるという原罪を背負っている者とみなす以上、この言葉にならって「もし真に道徳的な人間がいるとすれば、それはマゾヒストただ一人である」と言うことができるだろう。

  以上のように、マゾヒストの快楽とは社会的正義がなされる快感であり、サディストとの「罪と罰」という行為の中で完成するものなのだ。

人はなぜ下ネタをツイートするのか

 Twitterで自分の性癖もしくは実現不可能だと思われる性的願望を冗談交じりに公開している人がよくいる。「幼女をぺろぺろしたい」とか、「○○ちゃんの聖水を飲みたい」とか、「JKの革靴になりたい」とか、とりあえずそういった類いのツイートのことだ。

 そして、そのツイートが特に嫌がられるということもなく普通に受け入れられている。

 むしろ、受け入れられるだけでなくRTされたり多くのお気に入りがついていたりすることも少なくない。それらのツイートはRTされたりいいねをされたりすることで「面白い」と、公然と好意的に支持されている。

 かつ、そのツイートがなされる環境の特徴として私が面白いと感じるのは、そのtwitterの状況が完全な匿名状態では決してないということだ。フォロワーにリアルでの友達がいたり、オフ会をすることがあったり、決して顔が全く見えない完全匿名状態でツイートされている訳ではないのである*1。通常だったら、知り合いの見ている場で自分のそういった願望をつぶやくというのは避けたいように思われるし、それを公開された側が「面白い」というポジティブな反応をするのも少々奇異に感じられる。

 だって、なんで人の隠された性癖を見せられて喜ぶんだ。どうだってよくないか。誰が誰の聖水を飲みたいとか処女膜を食べたいとか、知りたいか?

 まあ、そんなことを言いながら私もそういうツイートをするときがあるし、そういうツイートを面白いと好意的に受け止めていいねを押したりすることも多い。

 こういう時の精神構造とはいったいどうなっているのだろうか。

 そう考えたときに脳裏に浮かぶのは「ほんもの(真正さ)の倫理」という言葉である。この言葉はチャールズ・テイラーというカナダの社会哲学・政治哲学・倫理学者が『今日の宗教の諸相』という本の中で述べている言葉だ。

 曰く、

「「ブルジョワ」や諸々の確立化されたコードと標準に抵抗し、自分自身のなかで想像して生きるべきだというインスピレーションを得た芸術や生活様式を公然と表明することが自分たちの権利であり、義務でもあるという感覚」

 

が「ほんもの(真正さ)の倫理」なのである。なんというか、非常に表現主義的かつ現代っぽい考え方だ。上の引用を要約すればこれは「人のそのままの個性というのは良いものだ」ということだし、個人を尊ぶ現代社会によくマッチしている。

 つまり、この文脈で考えるとtwitterでそういった下ネタを公開するのは、「確立化されたコードに抵抗」し「自分自身の中」の考えを「公然と表明する」ことなのだ。

 さらにテイラーはフランスの小説家であるアンドレ・ジッド1920年代に自らを同性愛者だとカミングアウトしたことについて触れる。そうしてテイラーは彼の行動をこう評するのだ。

「それは、欲望と道徳性と正直さの感覚が一つになっているような動きであった」

 どうだろう。この言葉はまさに「下ネタツイート」と脈絡をともにしていないか。

 下ネタという性的欲望とそれをそのまま公開するという正直さ。これが「ありのままの自分で生きる」という道徳性に繋がってくる。

 要するに、現代社会ではそのままの自分を顕示することが良いことである、と理解されていて、その延長で性癖暴露ツイートが好意的に受け止められる土壌が形成されたのではないか、と私は考えるのだ。

 日々、量産されるツイートはきっと自分の本当の姿を暴露することは良いことであるという倫理観の基に育ってきた。「本当の自分探し」といった言葉が取りざたされるこの世の中。そういった価値観の中で、下ネタツイートは「本当の自分」を外にさらけだすための一つの機会なのだ。

*1:少なくとも私の周りでは。

生命の形は見ることができる

  拒食症になり命を落としたモデルがいた。「痩せていることが美の必要条件である」という固定観念が行き過ぎた結果としか言いようがない。拒食症のモデルは一般的な美を追うために痩せようとする。自らの余分な肉をそぎ落とし続け、理想の身体のラインを目指していく。しかし、それを追求し続けて骨と皮だけの身体になってしまうと、皮肉なことにそれもまた一般的な美の形態からは外れてしまうのである。

 ナチスの収容所に収監されていたユダヤ人たちの映像がある。被収容者たちの栄養状態はすこぶる悪く、彼らはガリガリにやせ細っている。頬は落ちくぼみ、眼窩に沈んだ目はぎらぎらと異様な光を放つ。身体はあたかも骨格標本の上にとりあえず人間の皮をぴっちりと覆い被せてみたかのようなありさまで、極限まで細くなった手足はまるで昆虫のそれに見える。関節の部分に目をやると、骨が今にでも皮膚を突き破って露出するのではないだろうかという気がする。指の細さに至っては普段我々が使っている箸の細さのごとく。その様子を見ていると、人間はこのような身体になってもまだ生き続けられるのかと思わず驚いてしまうほどだ。収容所の中では何人もの人々が飢えで命を落としてきた。つまり、映像に残っている彼らのあの身体は死に限りなく近い状態なのである。痛ましくて、彼らの映像を見ていると平常心ではいられないという人が大半であろう。痩せすぎて骨と皮だけになった身体は、多くの人に嫌悪感を抱かせるに違いない。

 しかし、拒食症のモデルや被収容者の痩せすぎた身体というのに妙な魅力があるというのも事実ではないだろうか。「見たくない、でもなぜか見たい、見ずにはいられない」。そんなアンビバレントな感情を抱く人も少なからずいるのではないかと私は推測する。そして、私もその一人だ。これはなぜなのだろうか。

 その理由として、私は痩せすぎて死に近付いた身体は生命の形を剥き出しにしているからではないかと考える。痩せすぎた身体には生きていく上で余分なものが一切ない状態だ。生命を維持するための必要最小限度のものだけが保持された状態と言い換えることもできるだろう。つまり、あの身体には「命そのもの」だけが残っているのだ。痩せすぎて死の一歩手前の身体は私達に剥き出しの命を示しているのである。今現在、拒食症でない私は生命の上に脂肪だとかの無駄なものを乗せて生活している。しかし、脂肪が全て使い尽くされ、餓死の間際に瀕することがあったとしたら、その時に私の身体に宿っているのは無駄なものが一切そぎ落とされたただの命だけだ。これほどまでに強烈な生があるだろうか。

 拒食症モデルの方やナチスの収容所の被収容者の方がたのような死に瀕した痩せすぎの身体が猛烈なオーラを発し私の目を捉えて放さないのは、それがきっと剥き出しの生の形だからだ。生きている人間がその生に惹かれるのは当然のことだろう。痩せすぎた身体は思いがけず強烈な生を発しているのである。私達が痩せすぎて死に瀕した身体を見ているとき、それはおそらく私達が生命の形を見ているということでもあるのだ。

 

醜くて美しく、美しく醜いもの

私は、パリよりもクラクフの方好きで、レオナルド・ダヴィンチの絵よりもすぐに消されてしまう街角の落書きの方が好きである。ヨーロッパで豪華なお城を見るよりは小さな村のひなびた教会を見たいし、ダイヤの指輪よりもラムネの瓶の中に入っているビー玉の方が美しいと思う。健全な人間よりと一緒にいるよりは、ちゃんとしているようでどこか欠けた部分のある人と一緒にいたい。

 つまり、私は今にも滅んでしまいそうな、もしくは滅びを感じさせるようなものが好きなのである。坂口安吾の『もう軍備はいらない』というエッセイに「何が美しいと云ったってサクレツする原子バクダンぐらい素敵な美はないだろう」という一文がある。原子爆弾といった非人道的兵器を許すつもりは筆者にはさらさらないが、それでも私はこの一文に完全に同意せずにはいられないのである。

 私は整形で美しくなった若い人を見るのが大好きである。なぜなら、彼らは作られた美を全身で表しながらもいつこの顔が時間によって崩れるか、恐怖を抱えているからである。彼らが、異性(もしくは同性)に貢いでもらって豪華な生活をしていればいるほど筆者は背筋を振るわせて興奮せずにはいられない。もし彼女/彼が美しくなくなったら彼らはどうするのだろう、貢いでくれている人がいなくなったら、彼女/彼はどんな反応をするのだろうと考えると不気味な熱が湧き上がってくるのを抑えられない。今にも転落しそうな崖のそばで刹那的な美だとか快楽を貪る彼らを見ていると、まるでクリムトの絵を見ているようで感動を覚える。

 「ヒトラー最後の12日間」という映画がある。陰鬱と評されることが多い映画だが、私は決してそうは思わない。ソ連軍が東側から迫ってくるのを知っていながらベルリンの地下壕の中でナチス党員たちが毎晩パーティを催している様子は、ゾッとするほどに美しい。破壊されつくされている最中の町の下で踊るダンスほど白眉な娯楽はないだろうし、いずれソ連兵によって踏みにじられるだろうドレスほど綺麗なものはないと思う。

 私も、いつか死ぬことを悟った日があったならば、自分の持っている服の中で一番高価で綺麗な服を着て丁寧にメイクをして、死にたいと思うのである。

卵とエロティシズム

卵は非常に美しい形をしていると思う。卵が描く曲線はたおやかで、優雅だ。表面は決してすべすべしている訳ではないが、指をその上にすべらせると、なんの抵抗もなく端から端までなぞることができる。手で軽く握ってみると、その曲線をさらに味わうことができる。そして、これ以上握ったら壊れてしまうかもしれない、という緊張感が手のひらを押し返してくる。筆者は、壊れやすい曲線美を持つ卵にエロティシズムを感じずにはいられない。

 バタイユの小説に、『眼球譚』という作品がある。この中で卵は非常に興味深いモチーフとして扱われている。この小説はエログロナンセンスの極地とも言われるもので、ここで内容に深く踏み込むことはしない。ただ、この作品の中で重要なのが「卵-睾丸-目玉」という一連の流れであることは確かであり、やはりエロティシズムの発露として卵はみなされている。この作品を一度でも読んだならば、誰しもがこの3つの繋がりに強い衝撃を受けるに違いない。

 さらに、もう1つ挙げたい作品がある。それは、ダリの「アンダルシアの犬」というショートフィルムだ。現在、ダリの展覧会が国立新美術館で開催されていることをご存知の方も多いだろう。その展覧会でもこのショートフィルムは上映されている。筆者自身、今回のダリ展で初めて「アンダルシアの犬」を見た。その中で最もショッキングなシーンとも言えるのが、女性の目玉がカミソリで切り裂かれるシーンだ。目玉と言っても黒目部分は映っておらす、ただ、真っ白ですこしいびつな形をした球体が真横に切り裂かれる様子がスクリーン上に大写しになる。そしてその切り裂かれた白目部分からは透明な粘膜がずるり、としたたり落ちるのだ。このショートフィルムでは、直前に真っ白な満月が画面に映し出されており、ダリはその満月と目玉を重ねて想起させようと考えているように思われる。だが、筆者がこのシーンを見たときに意識に上ったのは他でもない、卵であった。真っ白な目玉の中から透明の粘膜が落ちる様子は、卵から卵白がしたたり落ちる様子に似てはいないだろうか。もちろん、このシーンを見てエロティシズムを感じる人間はほとんどいないだろう。しかし、筆者はこのシーンを見たときに、「目玉-卵」という強烈な繋がりが頭の中で意識され、それが前述のバタイユの作品へと一気に繋がり、背筋がぞくぞくするような興奮を覚えたのだ。

 卵とエロティシズム。以上の文を読んで共感した人は決して多くないと思う。それでも筆者は主張をしたい。卵は明確にエロスに繋がっているのではないか?