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褻の日記

耽美っぽい文章を書きます

生命の形は見ることができる

  拒食症になり命を落としたモデルがいた。「痩せていることが美の必要条件である」という固定観念が行き過ぎた結果としか言いようがない。拒食症のモデルは一般的な美を追うために痩せようとする。自らの余分な肉をそぎ落とし続け、理想の身体のラインを目指していく。しかし、それを追求し続けて骨と皮だけの身体になってしまうと、皮肉なことにそれもまた一般的な美の形態からは外れてしまうのである。

 ナチスの収容所に収監されていたユダヤ人たちの映像がある。被収容者たちの栄養状態はすこぶる悪く、彼らはガリガリにやせ細っている。頬は落ちくぼみ、眼窩に沈んだ目はぎらぎらと異様な光を放つ。身体はあたかも骨格標本の上にとりあえず人間の皮をぴっちりと覆い被せてみたかのようなありさまで、極限まで細くなった手足はまるで昆虫のそれに見える。関節の部分に目をやると、骨が今にでも皮膚を突き破って露出するのではないだろうかという気がする。指の細さに至っては普段我々が使っている箸の細さのごとく。その様子を見ていると、人間はこのような身体になってもまだ生き続けられるのかと思わず驚いてしまうほどだ。収容所の中では何人もの人々が飢えで命を落としてきた。つまり、映像に残っている彼らのあの身体は死に限りなく近い状態なのである。痛ましくて、彼らの映像を見ていると平常心ではいられないという人が大半であろう。痩せすぎて骨と皮だけになった身体は、多くの人に嫌悪感を抱かせるに違いない。

 しかし、拒食症のモデルや被収容者の痩せすぎた身体というのに妙な魅力があるというのも事実ではないだろうか。「見たくない、でもなぜか見たい、見ずにはいられない」。そんなアンビバレントな感情を抱く人も少なからずいるのではないかと私は推測する。そして、私もその一人だ。これはなぜなのだろうか。

 その理由として、私は痩せすぎて死に近付いた身体は生命の形を剥き出しにしているからではないかと考える。痩せすぎた身体には生きていく上で余分なものが一切ない状態だ。生命を維持するための必要最小限度のものだけが保持された状態と言い換えることもできるだろう。つまり、あの身体には「命そのもの」だけが残っているのだ。痩せすぎて死の一歩手前の身体は私達に剥き出しの命を示しているのである。今現在、拒食症でない私は生命の上に脂肪だとかの無駄なものを乗せて生活している。しかし、脂肪が全て使い尽くされ、餓死の間際に瀕することがあったとしたら、その時に私の身体に宿っているのは無駄なものが一切そぎ落とされたただの命だけだ。これほどまでに強烈な生があるだろうか。

 拒食症モデルの方やナチスの収容所の被収容者の方がたのような死に瀕した痩せすぎの身体が猛烈なオーラを発し私の目を捉えて放さないのは、それがきっと剥き出しの生の形だからだ。生きている人間がその生に惹かれるのは当然のことだろう。痩せすぎた身体は思いがけず強烈な生を発しているのである。私達が痩せすぎて死に瀕した身体を見ているとき、それはおそらく私達が生命の形を見ているということでもあるのだ。