読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

褻の日記

耽美っぽい文章を書きます

人はなぜ下ネタをツイートするのか

 Twitterで自分の性癖もしくは実現不可能だと思われる性的願望を冗談交じりに公開している人がよくいる。「幼女をぺろぺろしたい」とか、「○○ちゃんの聖水を飲みたい」とか、「JKの革靴になりたい」とか、とりあえずそういった類いのツイートのことだ。

 そして、そのツイートが特に嫌がられるということもなく普通に受け入れられている。

 むしろ、受け入れられるだけでなくRTされたり多くのお気に入りがついていたりすることも少なくない。それらのツイートはRTされたりいいねをされたりすることで「面白い」と、公然と好意的に支持されている。

 かつ、そのツイートがなされる環境の特徴として私が面白いと感じるのは、そのtwitterの状況が完全な匿名状態では決してないということだ。フォロワーにリアルでの友達がいたり、オフ会をすることがあったり、決して顔が全く見えない完全匿名状態でツイートされている訳ではないのである*1。通常だったら、知り合いの見ている場で自分のそういった願望をつぶやくというのは避けたいように思われるし、それを公開された側が「面白い」というポジティブな反応をするのも少々奇異に感じられる。

 だって、なんで人の隠された性癖を見せられて喜ぶんだ。どうだってよくないか。誰が誰の聖水を飲みたいとか処女膜を食べたいとか、知りたいか?

 まあ、そんなことを言いながら私もそういうツイートをするときがあるし、そういうツイートを面白いと好意的に受け止めていいねを押したりすることも多い。

 こういう時の精神構造とはいったいどうなっているのだろうか。

 そう考えたときに脳裏に浮かぶのは「ほんもの(真正さ)の倫理」という言葉である。この言葉はチャールズ・テイラーというカナダの社会哲学・政治哲学・倫理学者が『今日の宗教の諸相』という本の中で述べている言葉だ。

 曰く、

「「ブルジョワ」や諸々の確立化されたコードと標準に抵抗し、自分自身のなかで想像して生きるべきだというインスピレーションを得た芸術や生活様式を公然と表明することが自分たちの権利であり、義務でもあるという感覚」

 

が「ほんもの(真正さ)の倫理」なのである。なんというか、非常に表現主義的かつ現代っぽい考え方だ。上の引用を要約すればこれは「人のそのままの個性というのは良いものだ」ということだし、個人を尊ぶ現代社会によくマッチしている。

 つまり、この文脈で考えるとtwitterでそういった下ネタを公開するのは、「確立化されたコードに抵抗」し「自分自身の中」の考えを「公然と表明する」ことなのだ。

 さらにテイラーはフランスの小説家であるアンドレ・ジッド1920年代に自らを同性愛者だとカミングアウトしたことについて触れる。そうしてテイラーは彼の行動をこう評するのだ。

「それは、欲望と道徳性と正直さの感覚が一つになっているような動きであった」

 どうだろう。この言葉はまさに「下ネタツイート」と脈絡をともにしていないか。

 下ネタという性的欲望とそれをそのまま公開するという正直さ。これが「ありのままの自分で生きる」という道徳性に繋がってくる。

 要するに、現代社会ではそのままの自分を顕示することが良いことである、と理解されていて、その延長で性癖暴露ツイートが好意的に受け止められる土壌が形成されたのではないか、と私は考えるのだ。

 日々、量産されるツイートはきっと自分の本当の姿を暴露することは良いことであるという倫理観の基に育ってきた。「本当の自分探し」といった言葉が取りざたされるこの世の中。そういった価値観の中で、下ネタツイートは「本当の自分」を外にさらけだすための一つの機会なのだ。

*1:少なくとも私の周りでは。