褻の日記

耽美っぽい文章を書きます

愛国心とナショナリズムとビジュアル系

  日本においてナショナリズムをテーマとして扱う音楽アーティストは少なくない。有名どころで言えば椎名林檎LOUDNESSなどが挙げられるだろうし、私の好きなビジュアル系に目を向けるとその数は一気に多くなる。例えば、初期のthe GazettER指定カミカゼ少年團、極東彼女などと枚挙にいとまがない。彼らのアーティスト写真には日章旗があしらわれ、メンバーは軍服に似た衣装や制帽を身につける。
 この記事では前述のようにビジュアル系が好きな私がビジュアル系アーティストと日本のナショナリズムの関係について考察してみたい。
 まず、ナショナリズムとアーティストの関係をおおまかに見てみよう。果たして本当にアーティストはナショナリズムを彼らのテーマにしているのだろうか? 答えは違うだろう。彼らにとってナショナリズムはファッションでしかない。
「なんかかっこいいから」。だから、彼らは日章旗を使い、銃を持ってPVを録り、歌詞に旧字体を使うのだ。
 その証拠に彼らの歌詞を見てみるとナショナリズムの発露とみられる曲よりもかえって反戦の曲が多いくらいだ。
例えば、R指定というビジュアル系バンドの「玉砕メランコリィ」という曲がある。

羽ヲ広ゲテ
空ヲ飛ビマス。
無為コソ過激
『日ノ丸ニ敬礼』

恋人よ僕が見えてますか?
恋人よ声が聞こえますか?
いつかまた会える気はしない...
焼き尽くす太陽照らしてくれ

『生まれて来なければよかった
どうせ死に逝く命ならば』
いつかまた会える気はしない...
未来の君の隣は誰だろう

せめて最後くらい咲きたい
君との日々はもう来ないけど
羽を広げ空を飛びます
明日を知らない御国ノ為に

 

 歌詞の一部を抜粋した。出征兵士の悲哀が描かれていると解釈して間違いないだろう。戦時歌謡曲「父よあなたは強かった」が「貧弱な歌謡曲」と戦時中に一部で思われていて、米軍人が「この曲は反戦歌か」と尋ねた話は有名だろう。この「玉砕メランコリィ」もその流れで考えると反戦歌としか言いようがない。
 しかし、曲調は決して暗くなく(まあ、暗くなる部分もあるのだが)、ライブでボーカルが「日の丸万歳」と叫ぶとファンも笑顔でその声に合わせて万歳のポーズをする。

 ここに、歌詞の内容と曲調と曲の演出に乖離が生じていることが分かる。
 一方で、同バンドには、「愛國革命」という曲もある。

「全員敬礼!!」

愛國革命
oh yeah!!
ok??

「病める国民に告ぐ!!ここからが革命の時代だ!!!」

国家斉唱 カリキュラム
誰かが 蒔いた 洗脳マインド
未確認飛行物体
五機体 迫る 空へとハイウェイ


アイアム ア ジャパニーズ ボーン
ブチ壊せ くだらん政治家の理想論とか
ブチ壊せ 国家権力に宣戦布告
ブチ壊せ 病んでる社会に一撃必殺
ブチ壊せ 今こそ日本に革命を!!(歌詞より一部抜粋)

 

 

 これはどう考えても反戦歌ではない。

 「愛國」という言葉が使われていること、國という文字が旧字体になっていること、革命という言葉が政治的な意味を持つこと、そして同時に英語詞が多く含まれていることがポイントだろう。
 まず、「愛國」という言葉であるがこれは“nationalism”と“patriotism”どちらの意味を指すのであろうか。次に革命についてであるが、これは字義通りの革命を指しているようである。国家権力に宣戦布告というのは暴力的革命を意味するのであろう。要するにこの曲は国家に対して愛国的戦争を起こし、国家権力を転覆させる革命を歌っているのだ。
 「愛國革命」と「玉砕メランコリィ」ではバンドのスタンスがまるで違うことが分かる。1つのバンドが全く違う主張をする曲を持っているのだ。これにはいささか違和感を持ちはしないか。

 ちなみにライブ映像を確認してみると愛國革命では曲の初めにメンバーがそろって敬礼をしている。軍国主義的なものをイメージしたのだろうか。
 

 さらに、ナショナリズムの定義と厳密に合わせて考えることも必要だろう。ナショナリズムの定義としてここではゲルナーの『民族とナショナリズム』におけるナショナリズムの定義を引用したい。曰く、

ナショナリズムとは)政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張するひとつの政治的原理

 


 この考え方は、R指定の「愛國革命」の中に明記されている。「アイアム ア ジャパニーズ ボーン」の部分が民族的単位を示していると考えられるからだ。ここで、この歌詞における愛國とはpatriotismでなくnationalismであることが分かる。
 

 ここでまとめてみると、①確かにビジュアル系バンドの歌詞にはナショナリズムの考えがちりばめられている②しかし、ナショナリズムのニュアンスがちりばめられているだけであってバンドのスタンスとして一貫した主義、思想があるわけではない③反戦歌も多い、という3点のことが分かる。


 そして、この2番目のポイントから、彼らのナショナリズムと音楽の関係はバンドがナショナリズムを利用しているだけであって、ナショナリズムが元になって音楽が形作られている訳ではないという結論が導き出せる。故に私はナショナリズムが彼らにとってファッションであると表現したのだ。
 

 しかし、ではなぜビジュアル系バンドはナショナリズムを利用したがるのだろうか。
 ビジュアル系がナショナリズムを取り入れたがる魂胆の根幹にあるのはビジュアル系の持つ一種の選民思想、排他性ではないかと考える。この2つはナショナリズムと強い繋がりを持つ。
 ビジュアル系は言わずもがな派手なメイクを特徴としロックサウンドを奏でる音楽シーンであるが、これはまずメインカルチャーとは成りがたいものである。

 ビジュアル系が好きな女の子たちは自らのことを「バンギャ」と称し、ビジュアル系に興味がないひとを「パンピ」と呼ぶ。「パンピ」とは「一般ピープル」という言葉の略であり、この呼び方はあたかもバンギャである自分たちを特別な存在であると相対化しているように感じられる。
 さらに、ビジュアル系、バンギャの世界には独自のルールがたくさんある。最前(ライブハウスで一番前の場所)を取るために仕切り(そのバンドのファンの場所をまとめる人)と交渉しなければならないというルールがあったり、バンドごとに独自のフリ(曲に合わせて手を動かすこと。一種のダンスのようなものを想像してもらえればいい)を持っていたりする。これらの独特の伝統は一見しただけではそうそう理解できず、慣れる作業が不可欠となる。これがビジュアル系の持つ排他性だ。
 つまり、バンギャの選ばれた特別な者としての意識(もちろん選ばれてなんていないのだが)が自国を礼賛する大日本帝国ナショナリズムと繋がるのではないか。
 そのバンギャの無言の要請を受けて、選民意識を吸収するためにビジュアル系バンドは日本的ナショナリズムを曲中やバンドのパフォーマンスに取り入れる。これがまたバンギャに影響を与えバンドはますますナショナリズム的ファッションを身にまとうようになる。この相互性がビジュアル系とナショナリズムの関係性を深めていったと私は考えるのである。
 どこかの国が「America First」などと言っている世の中であるが日本でもそうやって狭いバンギャの世界で「Japan First」的な文化が流行しているのである。
 厨二病愛国主義ナショナリズムの旗手であったはずの椎名林檎東京オリンピックのプランニング担当になった今、音楽シーンとナショナリズムはますます繋がりを強めていくのだろうか。ビジュアル系に限らず日本の音楽シーンの変化が気になる今日この頃である。