褻の日記

耽美っぽい文章を書きます

ヒールと不自由さ

ヒールの不自由さが好きだ。高いヒールであればあるほどいい。高いヒールであるほど不自由さが増すからだ。

 ヒールは、履く人間の自由を奪うことができる。ヒールを履いていると、躓きやすくなるし、早足で歩けないし、足裏が痛くなるので長い距離が歩けない。ヒールを履くことで私たちは知らず知らずのうちに活動を制限されているのだ。要するに、ヒールは綺麗にカモフラージュされた足枷なのである。それでも私たちはその不自由さを甘受して、ヒールを履く。

 さらに、あまりにも高いヒールの靴を履くとまっすぐ歩くこともできなくなる。そもそも、その靴は歩くためにデザインされていないからだ。ただ、足を綺麗に見せるというその一点の目的のためだけに作成されているような靴。その靴ではよちよちとしか歩けない。よちよち歩きのその様は中国の因習であった纏足さえも連想させる。纏足もやはり女性の不自由さの象徴だ。

 一方、スニーカーなどの歩きやすい靴は嫌いだ。歩きやすくて、自由で、どこにでも行けそうで途方にくれる。自由すぎて、目の前にある選択肢が多すぎて、私は何も選びたくなくなる。どこにでも行っていいよと突然言い渡された飼い犬のような気分になってうんざりする。だだっ広い、がらんどうの空間に突然放り出された気分になって、私はその自由さと輪郭のなさが嫌になってスニーカーを脱ぐ。

 ヒールなら、私は選択するべきことが少ない。どうせ遠い距離には行けないからだ。険しい道も通れないからだ。残された数個の選択肢しかない。その不自由さと窮屈さは私を安心させてくれる。

 それに、ヒールは女性らしさの記号だ。履いていると男の人に褒められたり、優しくしてもらえたりすることが多くなる。足が綺麗だね、背が高いね、足が長いね。歩きづらいだろうからタクシーに乗ろうか。歩きづらいだろうから一緒にいてあげるね。ヒールを履くことで私は自分の生き方をそっと方向付けるし、生き方は勝手に方向付けられていく。

 ヒールを履くという行為は私にとって「自由からの逃走」なのだ。自由であるがゆえに孤独な群衆にまぎれこんでしまって自分を見失ってしまうことがないように、私はヒールを履いて、不自由になって、安心をする。ヒールの不自由さを補ってくれる人を得て、一人ではないとほっとする。

 高いヒールは単なる靴のアクセントではない。私を不自由にしてくれる、大事な足枷なのだ。

 

 

 

 

 でもまあ男によっかかって生きてるような女って結局すごく嫌いなんですけどね、はい。