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褻の日記

耽美っぽい文章を書きます

VRとデカルトの死

友人の家ではやりのVR(Virtual reality)とやらを試させてもらった。一言で言うと、面白い。仮想世界で遊ぶ経験は初めてであったため、とても新鮮で刺激的だった。VRを使って的当てゲームをしたのだが、仮想世界の中のキャラクターが自分の思った通りの動きをして的に矢を当てていく様は非常に爽快だった。

VRをする際はヘルメットのようなものでかぶり、視覚を完全に覆う。リアルの世界の情報は嗅覚と触覚と聴覚でしか感知できない。また、両手にもVRの装置を装着するので、触覚もほぼ失われるといっていい。そうして触覚は奪われ、視覚は完全にVRと一体となる。私と友人はYouTubeでVRと合う音楽を流していたので、聴覚もリアルの世界からは失われていた。外界からの情報は遮断され、VR内の情報だけが視覚を通して自分に流れ込んでくる。

そんな様子だから、VRのヘルメットを外したときは非常な違和感があった。

「あれ? 私がいた世界ってこんなのだったっけ」

要するに、VRの世界の方が本物で、リアルの世界が偽物のように感じられたのである。VRの中で私は薄暗く、地平線が無限に広がる場所に立っていた。ところがどうだ。ヘルメットを外すと、電球はまぶしく、私が居た場所は決して広くないただの部屋だった。さっきまでは無限に広がった世界に一人でたっていたのに。ヘルメットをとった瞬間から、世界がよそよそしく遠く感じられた。本当の世界のよそよそしさは気味が悪く、私は途方にくれた。部屋の壁にかかっているアニメキャラだけが私を眺めて笑っていた。どっちが本当の世界なのだろうか。本当の世界への違和感はなかなかぬぐえなかった。

そのときにまず思い出したのは、「胡蝶の夢」の話である。胡蝶の夢は説明するまでもないだろうが、荘子の説話だ。ある男が、蝶になった夢を見る。しかし、夢から覚めた男は考える。「実はいまここにいる自分は蝶が見ている夢なのかもしれない」。彼が蝶になったと夢を見たと、蝶が夢の中で思い込んでいるのかもしれないのである。彼は人間になった夢を見ている蝶なのか。はたまた、蝶になった夢をみたと思っている人間なのか。私はまさにVRで胡蝶の夢と同じようなことを追体験した。VRの私が本当に感じられて、リアルの私が間違いのように感じられた。ヘルメットを外したときの私は、自分を人間になった夢をみている蝶だと思った。

また、胡蝶の夢よりも強く想起したのはデカルトの「我思う、故に我あり」という言葉である。すべてを懐疑したデカルトは、思惟の主体である自分だけは疑うことができず、その自分だけを確かな存在として認めた。心身二元論の主たる立場といってもいいだろう。

VRの世界から脱した私はこの言葉を思い出し、デカルトのこの言葉が完全に否定されたと思った。

もちろん、このデカルトの言葉はすでに様々な人間によってくり返し反論されている。最も有名な例をあげよう。

まず、「我思う、故に我あり」を三段論法で考える。

①私は思っている。

②思うことができるということは存在しているということである。

③故に私は存在している。

一見しただけで間違いに気付くだろう。①の時点において「私」という「主語」が規定されており、証明されなければならない「私」とコンフリクトしているのである。証明の結果として現れなければならない「私」が証明の過程ですでに登場しているというのは論理的な欠陥に他ならない。

 VRにおいては、別の方法でデカルトの言葉が反論されると思った。VRをしているとき、世界には2種類の私が存在している。リアルの私とヴァーチャルな私の2種類だ。便宜上、ここでは実際に世界にいる私を「私」、VRの世界の中にいる私を「私’」と名付ける。

私’はリアルの世界で存在していない。しかし、私’は思考する。私と私’は同じ思考体系を持っているからである。私と私’は表裏一体の関係だ。私’は私を通して思考をしている。私が考えて実行したことを私’は同じように実行する。私と私’になんの違いがあるだろうか。

確かに、私がいなければ私’はVRの中で存在しない。私’は独立した存在ではない。私に依拠している。当然だ。私が私’を作り出すのだから。私’は独立した存在では無く、リアルに存在する存在でもない。しかし、私’は考える。私を媒介にして私’は考えている。VR内の情報を得て思考する私とそれを受け取ってVR内で思考する私’の違いが「私」には分からない。私’はリアルには存在しないが、私と全く同じ思考の元に行動する「私」なのだ。こうして、私=私’となる。しかし、この関係には決定的な違いがある。私’がリアルの世界に生きること(つまり、存在すること)はない。

ここで、デカルトの話に戻ろう。デカルトの言葉を少しいじくってみる。我(=私)に私’を代入する。すると、

「私’考える故に私’あり」

という言葉が誕生する。

私’は私と同一なので「考える」が、私’は実際には存在していない。こうして、デカルトのこの言葉は反証される。私=私'である以上、この言葉は正しいが、一方で私’はリアルに存在しないのだから。VRが登場し、仮想世界の私’や誰か’が生まれたとき、デカルトの言葉は置いてけぼりにされてしまった。こうして、デカルトはVRの誕生で何度目かの死を遂げた。

やはり、VRの登場というのは、人間の思考や行動、心理に影響を与えるものに他ならないだろう。VRはきっと、私たちの世界をゆっくりと、しかし着実に変えていくに違いない。