読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

褻の日記

耽美っぽい文章を書きます

相模原障害者施設殺傷事件はリベラリズムへの返答である

 相模原での障害者殺傷事件は戦後最悪の死傷者数を出した事件として日本の歴史に不名誉な傷跡を残している。当初からナチズムと関連づけられた報道が多くなされ、T4作戦の名前が取りざたされた。T4作戦とはナチスによるユダヤ人の計画的抹殺の前哨戦とも言われるようなもので、彼らの優生学に従った計画であった。精神病患者、障害者たちを計画的に殺害したのがまさにその内容である。実際、施設の職員としての勤務歴を持っていた容疑者は「障害者は安楽死させるべきだ」などという発言をし、施設によりナチスと同じ考えだ、などと批判されてもいたらしい。

 容疑者の考え方は、「障害者は社会の厄介者」である、というテーゼが核になっているようだ。障害者を養うのにも金がかかっており、それは無駄遣いであると容疑者は考える。なるほど、障害者は弱者だ。一生社会の役に立つことがないと分かっているような弱者を我々が養わなくてはならない理由はどこにある? 障害者は生かされる価値のある人間なのか? 話はこういったところに落ち着く。

 一見正論であるようにも思われかねない考え方だ。良い社会を作るためにはその健常者の枠から外れてしまった者を消すことが一番早い。なんとも分かりやすい論理だ。この論理の裏側には「徹底した合理化」「絶対的な価値観」という2つの存在が見受けられる。

 そして、その2つの考え方は現代のリベラリズムへの応答なのではないかと私は考える。第二次世界大戦が終わり、ますますグローバル化し、リベラルな西洋主義が諸手を挙げて歓迎されてきたこの70年。それに対する反動がこういった考え方なのではないか。

 これについて考えるとき、まずはリベラリズムの持つ矛盾について目を向けなくてはならない。リベラリズムは、個人個人の性格、志向に重きを置き、個人の自由な行動を促進する。個人個人は自由な考え方を持つことができ、尊重される。言い方を変えれば、リベラリズムは個人をモナドと考えているといってもいいかもしれない。これらの個人は交流するという点でライプニッツの言う厳密な意味からは離れるが、個人個人は全く違う存在(=モナド)なのであり、彼らが違う行動を取るのは当然のこと。そうして、個人個人の自由な行動も、自由な考え方も保障される。

 しかし、人が自分のしたいように行動すると何が起こるか。例えば、ある人は暴力を正当な手段だと考えるかもしれない。他方、ある人は暴力は絶対に忌避されるべき存在だと思っている。この両者は考え方で対立していて一方が他方に危害を及ぼす可能性がある。また、ある人は異教徒を殺していいと考えるかもしれない。ある人の自由な意志がある人の行動を邪魔したり、ある人を傷つけたり、ということが起きてくるのである。

 それ故、リベラリズムの中ではいくらモナドの自由を認めようとも社会の規範、共通認識、ひいては共通善を求めることが必要とされる。これらは個人の行動をある程度束縛する。この束縛は個人が自由に考え生きることを推進する抜本的なリベラリズムの考え方と相容れないものだ。だが、規範のないリベラリズムがどうなるかは容易に想像がつくだろう。ゆえに規範抜きにリベラリズムは現実社会の中に立ち現れることができない。リベラリズムは現実社会に存在するために矛盾をはらんだままでいる。

 この矛盾というのは、なんともむず痒いものだ。リベラリズムは完全なものではないのである。

 また、リベラリズムは相対化の考え方でもある。上記では共通善が登場するが、元来はそれぞれがそれぞれの人生を歩むことが推奨され、絶対的な基準というのは回避される。リベラリズムの産みの親となったフランス革命を見てみるといい。フランス革命は王という絶対君主を打ち倒すことが重要な要素となった。

 絶対化は非人間性をしばしば生み出す。それはナチスの絶対の基準であった「Volk」の考えが生んだショアーを考えればいいかもしれないし、共産主義の絶対の基準であった「歴史」の生んだジェノサイドを考えればいいかもしれない。では、その反対である相対化がとても良いものであるかというとそうとも言い切れない。

 というのも、相対化は人間の拠り所を奪ってしまう可能性を抱いているからである。相対化は、人間の寄る辺のなさを強調し、ニヒリズムの親となることがある。自らの基盤やアイデンティティが、相対化により大きな世界の中に完全に飲み込まれてしまったときに、人間は一体どんな行動をとればいいのだろうか。

 上記のようにリベラリズムは矛盾を内包している。しかも、リベラリズムの相対性には限界があるのだ。しかし、リベラリズムは現代において重視されてきた。日本もその例に漏れない。日本は西洋の考えを吸収し、その流れの中でリベラリズムも自らのものにした。

 そして、リベラリズムの持つ暗黙の矛盾への違和感が発露したものがこの事件を引き起こしたのではないか、と考えるのである。

 全ての人の自由、平等が謳われていながらも現実では平等なのか分からないような重度の障害者の方がいるという事実。本来ならば自分のものであるはずのお金がその障害者一人を生かすために使われている現実。相対化されニヒリズムに陥ったときにそれを克服するために施設の中にあらわれる強者としての健常者。相対化の果てに現れ、健常者を善、障害者を悪とする絶対化の考え。

 そういったものがこの相模原障害者施設の事件の裏には潜んでいるのではないだろうか。そういった考えを持つ傾向のあった人が、障害者を前にして事件を起こしてしまったのではないか。

 もちろん、私は容疑者を擁護するつもりは全くない。万死に値する行為だと思っている。障害者の権利は絶対に守られるべきであろう。ただ、リベラリズムの持つ歪みという文脈でこの事件を読むこともできるのではないかと考えるのである。

 リベラリズムは確かに重要な考え方だ。しかし、それが暗礁に乗りあげる可能性もある以上、我々はどうやってそれに対処しうるだろう。